上海帰りのリル その後
以前、上海リルに関して、とりとめもなく取り上げましたが。
2011-11-12(土) 上海リル&上海帰りのリル 「誰かリルを知らないか」
この時は、1933年に流行った「上海リル」の原曲や戦争をはさんで、その曲からインスパイアされた曲で当時大ヒットした「上海帰りのリル」までのながれでした。
今回はこの大ヒットした「上海帰りのリル」からの便乗ソングをいくつかメモしておきます。便乗ソングがでるほど「上海帰りのリル」は大ヒットしたのですね。当然当時のヒット曲ですから映画化もされてます。リル役は、憧れの香川京子さん演じたそうです。
この曲の歌詞に出てくる「夢の四馬路(スマロ)」ってどこでしょうか?どうやら「福州路」のことらしいですね。日本で言えば神田神保町といった感じなのでしょうか。この歌のほか「夜霧のブルース」にも、やはり「夢の四馬路(スマロ)」として歌われているくらいですから、とてもすてきなところなのでしょうね。
戦前の上海から横浜へ流行か舞台に移り変わりは、歌謡曲のながれてきなものそのもではないでしょうか。
- 津村謙 /上海帰りのリル
作詞 東条寿三郎 作曲 渡久地政信。
- 私がリルよ / 三条美紀
これは以前聴いたことありますが、動画ないですね。
- 三条町子 / 私は銀座リル
横浜ではなく銀座に移ったのですね。銀座は港町ではありませんが、最終到着地でしょうか。このあたりが「港のヨーコヨコハマヨコスカ」を彷彿。
- 私がリルの妹よ / 三鳩ひとみ
これ聴いたことないです。妹まで出てくるとは
- 霧の港のリル / 久慈あさみ
完全に類似品ですね
このほか、津村謙さん自身による、続編ともいうべき曲(「リルを探してくれないか」「心のリルよなぜ遠い」)もでています。よほどリルが恋しいのですね。
P.S. 結局まだ、井上靖氏の小説での引用はまだ裏がとれておりません。
映画「ジャンケン娘」による3人娘共演 「愛燦燦と…美空ひばり物語」 よりの気づき
昨日のあきれたぼういずといば、川田義雄(川田晴久)さんによる美空ひばりさんの後押しですね。というわけで、本日ひばりさん本からです。この本の3人娘部分の解説ですが、言われてみてそうですよね的な感想。素晴らしい才能ある少女が3人娘としていっしょになって、良きライバルとしてさらにそれぞれが成長したのですね。とうぜん、3人のなかではひばりさんが最初にスターになっているわけですが、1952年ジャズ歌謡ブームのなか、ジャズが得意な江利チエミさんが14歳にして「テネシー・ワルツ」を大ヒットさせ、一躍人気者に躍り出ました。これは、ひばりさん母娘はかなり気にしていたようです。この本につぎのようなエピソードが書かれていました。はじめて江利チエミさんとひばりさんが出会った時、後輩であるチエミさんから挨拶が無かったことにひばりさんの母親喜美江さんが快く思っていなかったとか、大阪千日前の大劇で「実演ひばり祭」の開催時期にその隣りの常盤座でチエミさんが実演をぶつけてきたことに、ひばりさん側は、明らかに挑戦であると受け取ったらしいです。しかし、そこでひばりさんの凄いところは、単に怒るのでなく、「じゃ私もジャズを歌ってやろうじゃないか」とジャズを猛特訓したそうです。そして、実際ジャズをレコーディングして、あの素晴らしいひばりさんのジャズの歌唱へとつながったのですね。
- LOVE / 美空ひばり
それを受けて、ジャズ専門であったチエミさんも和服を着て歌うことの出来る歌手を目指し、「さのさ」をうたったのだそうです。
- さのさ / 江利チエミ
どちらもすばらしいと思いませんか、やはり素晴らしい才能にはそれを伸ばしてゆく状況がおとずれてくるのですね。
そうした、かなり激しいライバル関係にあった二人の間に雪村いづみさんが入ることによって、3人娘として、お互いライバルでありつつ3人で人気を伸ばしてゆく構造ができあがったそうです。
その人気絶頂の3人娘を出演させる企画それが「ジャンケン娘」であったようです。それぞれで、いそがしい3人のを映画主演させるのはかなり大変な調整が必要であったようです。当初は、ひばり作品を多く手がけていた松竹企画であったようですが、企画途中段階で雪村いづみさんが新東宝の専属契約をしてしまったため、東宝と新東宝を結ぶ、プロデューサー杉原貞雄氏(のちの東宝ミュージカル全盛へ繋がっていくのでした)によって実現したのでした。その後も、チエミさん側のさまざま要望など、かなり調整は難航したようです。
このライバル意識の中と同年代としての気持とが微妙にバランスしていた3人娘であったのですね。
- Misora Hibari, Eri Chiemi & Yukimura Izumi in Janken Musume
このジェットコースターのシーン、ロケ地は当時の後楽園ですね。なんだか公園という感じでのどかさが残っているような。
あきれたぼういず / 空晴れて
シテイ・スリツカース、スパイク・ジョーンズ ときたらやはり、あきれたぼういず でしょう。活躍年代的にはスパイク・ジョーンズとかぶる感じでしょうか。自分が生まれる前の方々はどうも年代の前後関係があやふやです。とくにお笑い関係の方は比較的生きが長く、ヒット曲的にこの年に流行ったというのが少ないので後からの映画映像だけだったりするとけっこう混乱しますね。シテイ・スリツカースのフランキー堺さんなどもかなり映画に出演されていますし、あきれたぼういずの方々もコメディアンとして映画などに同時期に出演されていたりするので、みんな一緒くたなイメージをもってしまいがちでした(いつも思うのですが自分だけの関心ごと年表作りたし)。
念のため基礎データ
wikipedia:あきれたぼういず
あきれたぼういず(1935年(昭和10年) -1951年(昭和26年))は、川田義雄(後の川田晴久)、坊屋三郎、芝利英、益田喜頓、および山茶花究による日本のヴォードヴィル、ボーイズグループ。 テーマ曲は「チョイと出ましたあきれたぼういず、暑さ寒さもちょいと吹き飛ばし、春夏秋冬明けても暮れても、歌いまくるがあきれたぼういず」
第1期
川田義雄(かわだよしお)
坊屋三郎(ぼうやさぶろう)
芝利英(しばりえ)
益田喜頓(ますだきいとん)
第2期
坊屋三郎(ぼうやさぶろう)
芝利英(しばりえ)
益田喜頓(ますだきいとん)
山茶花究(さざんかきゅう)
基本的に、自分が幼い頃けっこうテレビに露出していた、坊屋三郎さんがいちばん馴染みあり、ついで、最初の刷り込みが優しいおじいいちゃん的存在の益田喜頓さんのイメージの方が印象的でした。しかし、このグループの音楽的には川田義雄(川田晴久)さんの存在が大きいのですね。そして最近の昔好きだったことの繋がりがここにも出てきています。川田さんは『ハワイ公演と笠置シズ子「愛燦燦と…美空ひばり物語」 よりの気づき 』の本でも書かれていてように、ハワイ公演など、初期のひばりさんのプロデューサー的存在でもあったのですね。やはりこのへんのエンタメの世界の繋がりは面白そうです、もっとドキュメントとかいろいろ知りたいところです。
芸人⇔ジャズ この関係は大瀧師匠に教えて頂いた構図だと認識しているのですが、以前に表面を理解した以上に深い関連がありそうです。
- あきれたぼういず - 空晴れて
- あきれたぼういず - 新版ダイナ狂想曲
- あきれたぼういず - ハワイよいとこ
- 東京キッド−美空ひばり
川田晴久さんとひばりさんの共演作
いちどはまとめたいスパイク・ジョーンズ
80年代クレージーキャッツ好きで、そのながれで、スパイク・ジョーンズ の存在はもちろんしっていましたし、大瀧師匠のゴー!ゴー!・ナイアガラでも聴いたことあるような気もします。ただ、80年代この辺の曲を聴くのは大変なことでした。再発レコードとかも限られていますし、発売されていても情報を入手することも少なかったです。さらに、それを購入するお金もありませんでしたし。それが今回調べてみたら、90年代後半からCDによる各種コンピが発売されているのですね。現在では小遣い制なため、別の意味で購入資金がありませんが。
そこで、いくつかアルバム情報集めてみました。全部買えればベストなのですが、どのコンピレーションがお買い得かちょっと検討してみるつもりです。
しかし、この冗談音楽がリアルタイムで流行っていたのはほんの数年であったのですね。でも、その直接的な冗談技法は、さすがに続きませんでしたが、ノベルティものだけでなく、その後のちょっとユニークな楽曲に多く影響を与えているように思います。やはり、ナイアガラの一番好きな部分のルーツですね。ユーモラスなんだけど、どこかドリーミーさを感じるのはレトロ趣味からくるものだけではないはず。
(Spike Jones で検索すると、映画監督の方にかなりヒットしますよね、そちらも好きですけどね。)
- Spike Jones: Hawaiian War Chant
- Washington Square - Spike Jones ワシントン広場の夜は更けて
やはり、奇を衒うことばかりじゃないセンスがありますね。
- Spike Jones - Sabre Dance
エンタメの基本。これぞジャズるここじゃありませんか。
- SPIKE JONES & CITY SLICKERS - COCKTAILS FOR TWO - 1945
この気持すごくわかります。照れ隠し的なといか、何事にもこんなことろがあったりして、どちらもほんとは好きなのですよね。クレージーキャッツの「はい、それまでよ」的なもの。
- SPIKE JONES - Bizet's Carmen- RARE studio version
ハイそれまでョ~萩原哲晶作品集
昨日、岩井直溥さんを取り上げましたが、おなじ東京音楽学校 (旧制)の同級生である、早川博二さんと萩原哲晶さん、早川博二さんは以前取り上げましたが、ナイアガラとして最重要人物である萩原哲晶にはこれまでここで触れていませんでしたね。(まあ、このブログ、備忘録とあるように、ネットとかで新しく知ったことのメモであり、昔から好きなことは意外と取り上げられなかったりしています)
そんなわけで、バランスをとるためにも、萩原哲晶さんです。ナイアガラーなので、当然クレージーキャッツの音源はそこそこ持っているので、3人のなかではそらく一番音源は持っているのでしょうけど、クレージーキャッツ以外の活動は以外にフォローしきれていません。そんななか、萩原哲晶作品集が発売されているのを最近しりました。これ欲しい作品集です。クレージーキャッツ関係の音源はダブってしましますが、未入手な音源やまだ知らない音源がたくさんですしね。詳しく調べられていませんが、クレージーキャッツ音源もマスターが違いそうですね。
ほんとうは、哲晶さんとナイアガラの関連や影響度などまとめたいのですが、また今度ですね。
Disk.1
- スーダラ節 (MONO),
- ハイ それまでヨ (MONO),
- ホンダラ行進曲 (MONO),
- うちら祇園の舞妓はん,
- 私のシャーベット (MONO),
- 私はオトナよ (MONO),
- 銀座のバカンス (MONO),
- 恋のラーメン娘 (MONO),
- 愛してタムレ,
- ソロバン節 (MONO),
- 今度逢ったら (MONO),
- なんでもやっちゃおう (MONO),
- 言えばよかった,
- 青島だァー,
このへん曲を哲晶が手がけるのは当然とイバ当然ですね。萩原アレンジ全開ですね。- 女なんて,
- すべてこの世はホイサッサ (MONO),
- 一押し二押し,
- ヤエちゃん,
- パパとママの銀婚式,
- だまって俺について来い,
- あなたとなら,
- ブットンダ,
- 三年早いよ,
- 泣かないで,
- これで日本も安心だ!
Disk.2
- 太陽だって僕等のものさ,
- 忘れっこなしよ,
- 幸せなの,
- どえらい奴,
- 競馬音頭,
- おまわりさんも人の子だ (MONO),
- 野菊は哀し僕の花,
- 遺憾に存じます,
- それはともかくもう一杯,
- 君にしびれて,
- 逃亡者::幸せは又いつの日か,
- 涙ビリビリ吹きとばせ,
- エイトマンのうた (レコード・ヴァージョン) (MONO),
クレージーキャッツよりもこちらが、- ズッコケちゃん,
- いい湯だな(ビバノン・ロック),
作詞:永六輔、作曲:いずみたく、編曲:萩原哲晶。この曲もさまざまなバージョンがありますよね。- ドゥー・ワカ・ドゥー,
- 私がケメ子よ,
作曲/編曲:萩原 哲晶 作詞:柳家 子せん 補作詞:宇井 天平。- せっかちネエヤ,
- 泣かせるネ,
- 虹を渡って来た男,
- たいへん! バイキン音頭,
- イエロー・サブマリン音頭,
作詞・作曲:ジョン・レノン、ポール・マッカートニー/日本語訳詞:松本隆/編曲:萩原哲晶.名曲です。- ひょうきん絵書き歌,
- 実年行進曲,
- 新五万節
シテイ・スリツカース作編曲者 岩井直溥
昨日の「スヰングジャーナル」からの続きです。この「スヰングジャーナル」いくつかのバックナンバーがあるなかで、なぜこの号を選んだかというと「フランキー堺とシティ・スリカース」の特集があったからなのでした。ほんとうは、この「スヰングジャーナル」の記事を参考にシテイ・スリツカースを特集したいのですが、まだまだ書けるレベルにありません。思い入れ強くて。スパイク・ジョーンズから流れる、冗談音楽の世界、私にとって極めてナイアガラ的世界であり、大変好きなのです。そんなシテイ・スリツカースですが、特集までも勉強の一貫として、特集記事でも少し紹介されていた。岩井直溥さんを少し調べてみました。
東京音楽学校(現東京藝術大学)卒業。作曲を橋本國彦に師事。
1942年(昭和17年)に旧 東京音楽学校に入学。ホルン専攻。1943年(昭和18年)に学徒出陣により旧大日本帝国陸軍に入隊。朝鮮半島へ出征。その後千葉県習志野市の東部軍教育隊へ異動。館山市の守備隊で見習士官(准尉)で終戦を迎える。母親は帝国劇場のリハーサルピアノプレーヤー。ホルン専攻ではあるが、終戦後ジャズの世界にとびこみ、トランペットも演奏。ニューフェローズを結成し、東京都中央区銀座のアメリカ合衆国軍のナイトクラブで演奏。その後ビバップエース、アーニーパイルオーケストラを経てシティ・スリッカーズへ。アーニーパイル時代に編曲を始める。“フランキー堺とシティ・スリッカーズ”(1954〜1957)は当時のアメリカ合衆国のコミックジャズバンド“スパイク・ジョーンズ&ザ・シティ・スリッカーズ”に範をとり、フランキー堺をはじめ、谷啓、植木等、桜井センリらを擁した16人編成のバンドであった。のち東芝イーエムアイの専属となり作曲、編曲を手がけ尾藤イサオ、山下敬二郎、森山加代
恥ずかしながらいままで意識していなかったのですが、私にとてけっこう重要な作家さんかもしれません。シティ・スリッカースからクレージー関連、更には東芝ポップスへと関わりのあった方なのですね。そして、これまた大好きな早川博二さんそしてあのクレージーキャッツでお馴染みの萩原哲晶さんとは、東京音楽学校の同級生でもあったのですね。ユーモア好きとか似たようなセンスを感じます。今回、この3人が同級生であったことは面白い発見でした。これからもいろいろ繋がりを探していきたい方々です。
シティ・スリッカース系の冗談音楽編曲ばかりでなく、吹奏楽アレンジ関係でも有名な方なのですね。
- 黒い瞳 - フランキー堺とシティ・スリッカーズ
こういった民謡アレンジ有名ですね
- メロンの気持ち (ステレオ) 森山加代子
訳詞:ホセ・しばさき/原作詞・作曲:Carlos Rigual/編曲:岩井直博。この大好きな曲の編曲もだったのですね。
- ブラジル
アリイ・バロッソ(岩井直溥編曲)。昔のお正月ちっくなブラスアレンジが最高ですね。
このかた、まだまだいろいろ発見有りそうなのが楽しみです。
日本のジャズメンにおけるワタナベさん スヰングジャーナル1954年7月號より
先日入手した、スヰングジャーナル1954年7月號よりのねたです。この有名なジャズ雑誌の50年代の記事は当時の雰囲気がわかりなかなか楽しく読めます。
そんななかで、他愛のない記事のひとつに、「JAZZ界ゴシップ」というものがありました。まあ、アーティストのちょっとした情報などの豆コーナーなのですが、本日ピックアップは次のような記事です。
アダ名は便利?
渡辺の姓を名乗るプレイヤーが実に多い我国ジャズ界。”アノ渡辺がネ” ”ワタナベつてどの渡辺だい" と云うわけでどうも不便。そこで何時とはなしに次の様な分類が出来たワケ
- ナベシン:(渡辺晋シックス・ジョーンズのベース)
Shin Watanabe and Six Joes - ON THE SUNNY SIDE OF THE STREET- アルナベ:(渡辺辰郎ファイヴ・サウンズのアルト)
Teruo Yoda and Six lemons - MINKA- サダナベ:(渡辺貞夫コージイ・クヰンテットのアルト)
MOCAMBO SESSION '54- アコナベ:(渡辺弘アコーディオン)
サックス奏者の渡辺弘さんとは別の型のようです。- サクナベ:(渡辺平太レッド・ハット・ボーイズのテナー)
中村八大さんも客演していた、レッド・ハット・ボーイズのテナー)- コロナベ:(渡辺明アルト)
MOCAMBO SESSION '54
同上
ジャズなセンスってこういったアダ名付けにも現れていますよね。渡辺貞夫さんはナベサダでは無かったのですね、いつから反転したのでしょうかね。それとも当時から複数の呼び方があったのでしょうかね。昭和ジャズを語る上では「渡辺」は重要要素ですね。